死~そして、魂の行方。

『ようこそSpace-angelへ』この言葉、なんだか笑っちゃうのは私だけかな。

笑えるって、素敵なことだと思います。生きてるって感じ。


今日、お話ししたいことは、とてもデリケートなことなのかもしれません。そして、これは私の見解であって、これを押し付けるつもりもない・・ただ、私が感じたことをつらつらと書こうと思っています。

私の中の「死」に対しての見解をどうしても今、整理したくて書きます。そんなんだったら公開するなよと思った方は、今すぐ別の楽しいブログに行ってください。

えりぴょんがどんなことを書くのだろう?と興味のある方のみ読んでください。

それでも、読み始めて、いやだと思ったらさっさと別の人のブログに飛んでください。

これに関しての感想以外の、意見やクレームは一切受け付けません。

勝手ですみません。



一昨日、突然、そう、いつも突然。

誰かが亡くなるときっていつも突然連絡があります。(これから逝くよって連絡あったら怖いけど・・)

母の妹・・おばさん、が、亡くなりました。そして昨日は、おばさんが住んでいる(いた?)長野に母を送りに行きながら最後のご挨拶に姉と行きました。

おばさんと会うのはとっても久しぶりで。ベッドに横たわるおばさんは、とっても小さくて。ただ眠っているような・・私には決して安らかに亡くなったとは、感じられない(心臓の発作で亡くなったので)・・でも、まだ生きているような・・実際おばさんを見ていると、動くのです。まるで、息をしているように。

おばさんの周りのエネルギーを感じると、あきらかに私が存在しているエネルギーとは違うのです。

簡単に言うと別次元で生きている・・そんな感じです。


姉や母は、おばさんに愛おしそうに触れていたけど、わたしは、少し離れて見てました。

ベッドの上にいるのは、おばさんの形をしたただの体。

昔から、亡くなった人の体を触ると、その人が亡くなる前に感じたことや、思ったことが自分の中に流れてくるようなそんな感じと、自分もどこか違う世界に連れていかれそうなそんな気がして、怖くて触れることができないのです。

父が亡くなった時もそうでした。

なんだか、蝋人形のような・・ただの魂の入れ物がそこに横たわっている感じがぬぐえないのです。

人間は、肉体の中に魂が入ってこそ、「人間」なのだと痛感する一瞬です。

それだけでなく、私は家族や血のつながりということに対してそんなに興味がない、愛情の少ない(愛情がないとは思っていません(笑))人だと痛感するときでもあります。

子供が死んだら、触れるかしら?母が死んだら?姉が死んだら?旦那は?

死ぬときはその人のすべてがさらけ出される時なのだと思います。だからすべての感情がその一瞬に凝縮されて、体の周りに漂っているのかも?

私は人の闇を見るのが嫌で、自分の闇とリンクするのも嫌で、もしかしたら現実から目をそらしているのかもしれないですね。

高次元のシャーマンの私はそんなことないことを願います(笑)


生命反応がない・・もちろん亡くなっているので当たり前なのですが・・肉体は魂が地球に存在するために、地球から与えられるものだと聞いたことがあります。

だから、魂が抜けたら、肉体は最後には地球に戻り、次の生命の糧になるのだと。

生命の連鎖・・これはとっても尊いことですね。

一つの生命が終わりを告げた時、その入れ物は、地球に戻り溶け込み、そして次の生命の維持に役立つのです。


魂は?

肉体から抜けた魂はまた新たな学びをするために、一度地球で学んだことをもう一度復習するように、ひとつひとつ思い出すことができる場所に行きます。

人は、魂が体から抜け出るときに何を思うのでしょうか?

その時の波動が、次の学びのステージの波動になるということを聞いたことがあります。

だから、亡くなるときにすごく後悔をしたり、人を恨んだまま亡くなると、そういう波動がいっぱいのところに行くとか・・ちょっと宗教的ですが、宇宙の法則である同じ波動のものが引き合うというところから考えると、当たっているような気がします。


一方では魂には階層があって、今までは死ぬと元の場所に魂が戻れるといわれてましたが、今は本当の自分という魂が5.1次元以上だから、その場所に行けずに、とりあえずの場所に行って癒されて、それから、本当の自分という魂に吸収されるそうです。

これは、魂が分裂しながら地球に降りてきているということを意味しています。

分裂した魂はそれぞれのステージで学びをして、たくさんのことを吸収して、そして分裂したところの魂にまた戻るのです。

今世はどうもそうでないようだということも聞きます。これは人によって違うようです。

自分のこの魂が、ほかの魂を分裂できるようになる魂の位置に行く人もいるようです。

つまり、自分が魂の親玉になるということですね。

それにはたくさんのことを学ばないといけない・・大変だ・・ということで(笑)


魂は「死」というものを経験して、肉体から離れ、元いた場所あるいは、その魂自身が分裂できるようになる魂の場所に行きます。

魂は永遠で、学ぶということだけは不変です。つまり、私たちは常に進化しているということです。

停滞しているように見えても、そこで学びをして、ほんの少しだけ、自分でも感じられないくらい少しだけ進化しています。

だから、同じ自分はいないということですね。


人が死ぬということはとても悲しくて、苦しくて、怖いことだと思います。

でも、「死ぬ」ことからは避けられません。

私たちは地球に生まれた時から肉体を失うという恐れを抱きました。

私たちは地球に生まれた時に「死」に向かって学びを始めました。

死=失うことへの恐れ。これは誰もが持っているものです。

学ぶことの楽しさと、苦しさと、尊さも誰もが持っているものです。

ある意味、恐れを抱くことで、その恐れを克服するために様々なことを学ぶのかもしれません。

死ぬときに何を思うのでしょうか?

何を感じるのでしょうか?


死ぬときに思うこと・感じることがその人の一生を表しているのでしょう。


母とおばさんは、姉妹なのに全く違う人生を歩みました。母は、どちらかというと派手で、おばさんは地味目。

私が小さいころ、母が夜お店をやっていたので、よく夜泣きをするとおばさんが抱っこしてくれて、母が帰るまで一緒にいてくれたのを覚えています。

一つ違いのおばさんの子供とよく一緒に遊んで、いたずらをして叱られました。

私は、兄弟の中でも一番下で年も離れていたので、両親から甘やかされて育ったせいか、おばさんは「えりちゃんは、わがままだね~。でも、それでいいんだよ」と言って、なんでも許してくれました。

私の作った話や幼稚園であったことをよく聞いてくれました。

優しい人でした。

どんなことがあっても私という人間を肯定的に見てくれる人でした。

おばさんの亡骸をみて、走馬灯のように思い出しました。


おばさんの家の庭にはたくさんの木があって、昨日は天気も良くて、心地いい風も吹いていて、たくさんの自然のエネルギーに癒されました。


おばさんの死を悲しいと感じながら、一方で、魂の新しい門出を祝福している自分がいることも感じました。不謹慎だと思いながらも、そう感じてしまいました。


魂は常に学び進化をしている。おばさんの魂がどこに行くかはわかりませんが、新たな学びのために次のステージに向かうでしょう。

それでも今は、まだ肉体のそばで、母や、おばさんの子供たちと一緒にいるような気がします。


生きている間はおばさんに恩返しはできなかったけれど、せめて肉体から離れたおばさんの魂が、戻るべきところへ戻れるように祈りと癒しをさせていただきたいと思います。


最後までお読みいただきましてありがとうございました。

つらつらと意味もないことを書いたように思ったかもしれませんが、おばさんの死を機会に、今までの「死」に対して感じたことを表現しておきたいと思いました。

まだまだ、書き足りないこともあるのですが、未消化のまま。

それはまた機会がありましたら(忘れてなければ)表現したいと思います。


愛と感謝を込めて

えり









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