えりぴょん、死について考える。の、巻。
え?なんで?いま?と思うのですが、考えてしまったのだから仕方がない(苦笑)
人は、生まれた瞬間の喜びから、死に向かって生きていく。
死ぬということは、その人の人生が終わるということだけど、魂的にはただの通過点でしかないんだけど・・
人間として考えたら、その人生が終わるのだから、「死ぬ」ということはとても悲しいことで、
家族や友人からしたら、「喪失感」があって当たり前。
私たちは肉体を持っているから、なおさら、『死』は、何もなくなってしまうという意識が強く働くため、その物質への肉体への「喪失感」は半端ないと思う。
そういえば、誰かが言ってた。
『生きることは人にとって不平等な状態を生み出すけど、死は誰にでも、平等に訪れる』って。
確かに生きている間は、みんな同じじゃないよね。
お金持ちの人もいればそうでない人もいるし、苦労する人もいれば楽に生きている人もいる。
色んな価値観の元に生きているのだから、不公平感があっても仕方ない。
どんなに不公平であったとしても、『死』だけは「公平」にどんな人でもやってくる。
生まれた瞬間から死に向かって生きていくのだから、地球に生まれてきた私たちは、もしかしたら、ものすごい『M』気質なのでは?(笑)
もちろん、『死』のことを普段は忘れて過ごす。だから、時間も身体も、すべてのことが「無限」にあると錯覚をしてしまうから、何となく毎日を過ごしてしまいがちだし、人に思いを伝えることをためらったり、自分の能力を最大限に伸ばすとかも考えない。
それって、すごくもったいない感じがする。
ここの所、どういうわけか、最近『死』を意識してしまうようになって、
(年取ったんだな・・と思う)
自分の喜びのために生きることをしないと、死ぬときに後悔しそうな気がしてきた。
思い切り自分を出して生きていかないと今後の未来は真っ暗になる感じがする。
後悔をしたくない。
後悔は執着を生む。執着はいずれカルマとなって、魂に枷をつくる。
それだけはできれば避けたい。
これ以上、枷があると自由になれない。
死に様は生き様だから(と、昨日姉が言ってた)生きることに執着をして苦しむより、生きているうちに多少苦しくてもカルマや執着を手放して、死ぬときはあっさりスッキリ死にたいと思った。
人間死ぬ気で頑張ればなんでもできる!って言う人もいるけど、まあ、死ぬ気で頑張る内容にもよるけど、確かに、『死』を意識したら生命の尊さに気が付くかもしれない。
今を一生懸命に生きる。ことに、何の迷いもなく、一点の曇りもなく、納得がいく。
そして、生きていることに、生かされていることに、感謝の思いがあふれてくる。
生きることに対して貪欲になると、貪欲と言っても執着するとかじゃなくて、イキイキと自分らしく生きていくことという意味ね。
『死』を「喪失」「恐れ」「恐怖」「忘却」「別れ」ととらえるのではなく、『魂の門出』・『人間界からの卒業』という風に捉えたら、「生きる」ということに、執着して身動きが取れなくなるのではなくて、「生きる」ということに喜びを見出すことができるようになると思う。
『死』という、身近であり、最も縁遠いと思っていることを考えてみると、おのずと『生』も考えざる得なくなる。
つらつらと、色々書いてみたけど、つまり、「生きていることに感謝をしましょう」ってことかな・・
なんか違うような感じもするけど・・まあ、あれだわ。
人生も終盤になると、『死』のことを考えるようになるんだな・・と、思ったということだわ(笑)
ちゃんちゃん♪♪
eri
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